もて耐プロジェクト

藤澤の走り…って、体格がいいからR1がちっさく見えます。
でも初代ジュニアGP125の初代チャンプなんですよ
週末に土手で黄昏てるオトーサンでなく
エースライダーの本橋です

全員がグンヘルを被って参戦した2001年。愛美チャンもいるの
で、ピットは朝のラッシュ状態。亀作は大舞台に慣れてます

裏からみるとこんなカンジ。高価なカメラを
持ったカメラ小僧だらけ
 元々のはじまりは、ミニマムクラスの名門であったレーシングチームミズシマ出身ライダーが“同窓会”としてチームを結成したのがはじまり。ガンで水島氏が亡くなり、それまでの“お礼”を水島氏が大好きだったレースで返そうというものだ。

 ミズシマOBの中心的人物となるのが、RTミズシマに初の全日本タイトルを贈った藤澤哲也。初代全日本ジュニアGP125ccクラスのタイトルを獲得するが、翌年にレース中の大怪我で引退。その後、青年実業家として事業を行いつつ4輪レースをはじめ、2003年からは念願のフォーミュラニッポンに“史上最年長ルーキー”としてチームNOVAから参戦している。元GP125のライダーとは思えない体格と豪快な性格で、ミズシマOBの“親分”的存在だ。

 もう1人は本橋浩二。TT-F3クラスを中心に活躍し、鈴鹿6耐2位など輝かしい成績を残した。関東を代表する天才ライダーとして名を轟かせたが怪我などアンラッキーが続き、年間タイトルや桧舞台へのチャンスを逃した無冠の王者。ちなみに、鈴鹿6耐のときの第2ライダーであったのが、のちの世界チャンピオン・坂田和人であった。なぜかバイクにほとんど乗らないのに、ポッとサーキットを走ると現役より速いから困ってしまう。現在はカーペンター(大工さん)で、子煩悩なパパ。

 そして3人目のライダーが亀作和哉。RTミズシマで活躍した実績から、名門チームSP忠男に移籍し全日本にも参戦した出世頭。同じ地元の故・永井康友、原田哲也、松戸直樹ら当時、関東最強を誇ったSP忠男軍団の一員として活躍。松戸と組んだ筑波500km耐久レースでは優勝を果たすなど、耐久レースでの実績もあり。マシンのセットアップ能力も高く、1999年のレースではアドバイザーとしてチームに参加していた。2000年から6年ぶりにレース復帰を果たす。M-FACTORYには、店の前の葛西用水にルアーをしに来るついでにやってくる。なぜか、ルアーで鯉の大物を釣り上げたことがあるが、そのとき以外で釣っているのを誰も見たことがない。

 このライダーたちをまとめる(?)のが監督の横田将夫。レーシングスーツブランド・ヨネゾー(YONEZO)の代表であり、自身もロードレース経験あり。だいたいが、横田の一言で物事がはじまるパターンが多い。ちなみに宴会監督とソフトボールの監督も兼任。レースの準備もこなすが、それ以上に宴会の準備は忘れない。

 マシン担当がM-FACTORYの代表である三保田好一ことミポリンと、チーフメカニックに“させられた”ホンダ系の名門・BUM RACING出身の安達喜憲。2人ともライダーとしての経験も豊富で、マシン作りも自ら行っていた持ち主。安達は全日本や鈴鹿8耐などにも参戦していた元全日本ランカー。密かにライダーとして復帰をもくろんでいたが「誰がメカニックやるんぢゃ?!」の周囲の一言で、現在まで第4ライダー登録までしかされたことしかない。ちなみにミポリンの愛車であるYZF-R1は、レースウィークはスペアカーとしてチームに奉納されてしまう。

 このほかライダーには1999年には下川昌宏、2001年には島田誠二と原栄司が参加。下川は西仙台やスポーツランドSUGOなどで活躍。2000年はゴルフのプロテストを受けるためライダーからレーシングマネージャーへと転進。島田と原は、2001年からの大会新規則に合わせてチームに参加した国内ライダー。普段は2サイクル、それもS80やGP125といった軽量級クラスを戦っているため、特性の違う4サイクルしかもはじめてのビッグバイクYZF-R1にはだいぶ苦労したようだ。また、2001年のSUGO6耐には元ヤマハワークスライダーで全日本GP125ccクラス等で活躍した茨木繁がゲストライダーとして参加。久々のレース参戦でありながら、2位の原動力となる活躍を見せてくれたのはさすがだ。
もて耐プロジェクト
1999年 2000年 2001年