1999年 RTミズシマ&M-FACTORY
「もてぎ7時間耐久レース」、通称「もて耐」のためだけに結成された「目立ち度だけはワークス級」のチーム「ミズシマ&M-FACTORY」。ライダーは元全日本ジュニアGP125クラス初代チャンピオンである国際ライダーの藤澤哲也、久しぶりのレースでライセンスを更新したら国内ライセンスに降格になっていた本橋浩二と下川昌広の3名。3人とも80年代後半に各地のサーキットでブイブイ言わせていたライダーであったが、4輪のレース活動をしている藤澤を除けば普段はサーキットには縁もなく、本格的な二輪レース参戦ともなれば3人とも10年ぶり。一応、家でストレッチをしたり、練習に行って昔の感を取り戻す……まあ、少々時間は掛かるだろうと予想はしていたが、さすがブイブイ言わせた連中はすごかった。

 もて耐の前哨戦となる3時間耐久レースがチームとしての第一戦。そこで本橋がいきなりポールポジションを獲得したのだ?! それも本選でも充分に通用するタイムを叩き出したのだ。マシンは急造といってもいい、ほとんどノーマル状態のYZF-R1。形にこだわる集まりだけに、お揃いのチームウエアにストロボカラーをイメージさせるカラーリングを施したR1はサーキットでは目立ちまくり。周りからすれば派手な"新参者"だが昔取った杵柄、年式は少々古いメンバーだが激戦の80年代レースシーンで鍛えられた走りは錆びてはいなかった。んが、走りは錆びていなくとも"レース運び"は鈍っていた。

 決勝レース「3時間のスプリントに近い耐久ならタイヤ交換はない」と読んでいたのだが、ほかのチームはタイヤ交換を行い新品タイヤで圧倒的なタイムを叩き出してきたのだ。こちらも慌ててタイヤ交換を行うなどピットは大混乱のバタバタ劇。さらに首位追撃中のレース終盤、フューエルタンクの底部(ガソリンコック取り付け部)に振動でクラックが入りガソリンが漏れ出すアクシデントで緊急ピットイン。修復作業をし、ここでコースに戻れば12、3番手でというポジションでチェッカーが受けられると思ったが、無情にもピットロード出口でマシンは止められてしまった。修復が終わった瞬間に、次周でゴールのためピットクローズドになっていたのだ。周回数は上位と変わらないのにDNF(チェッカー受けず)という結果であった。

 本番である「もて耐」ではプレ3耐の経験、ノウハウ、そしてリベンジという目的ができた。予選では上位を現役国際ライダーたちが占めるなか(この大会まで国際ライダーの予選タイムアタックがOKであった)、本橋が再び魅せてくれた。3耐ではいなかった現役全日本ランカー、元GPライダーと遜色ないタイムをマークし、予選8位に食い込み周囲を驚かせたのだ。予選のレベルでいえば、プレ3耐よりも明らかに上がっていた中での本橋のタイムは、チームの士気さえも上げていた。

 しかし決勝レースは波乱の幕開けだった。スタート直後に多重クラッシュが発生しレースは赤旗中断。スタートライダーであった本橋は巻き込まれることはなかったのだが、別のコーナーでスリップダウンしていたのだ! なんとかピットまでは戻ってきたが、レース再開までわずか30分。マシンの修復作業にピットは戦場と化していた。

 幸いにして本橋に転倒による怪我もなく、マシンへのダメージもステップとカウルの交換のみとダメージは最少限で済んだ。しかし、ツインリンクもてぎ特有の"砂利グラベル"に捕まったため、砂利や砂を大量に被ってしまった。このグラベルがクッションになったおかげでダメージは少なく済んだが、エンジン内部に細かい砂が侵入している可能性もあり不安は否めない。そして再スタートした決勝レース。マシンをチェックしながらも、本橋、藤澤、下川の順番で快調にラップを重ね、ベスト10内を狙えるポジションまで上げてきた。しかし、本橋が2回目の走行中に天候が怪しくなってきた。
「こりゃあ、にわか雨がくるぞ」と、ピットにいた地元の一人が言った。もて耐は溝付きスポーツタイヤの使用が定められており、ウェット時はレーシングレインタイヤの使用が許される。一般公道でも使える溝付きのスポーツタイヤとはいえ、ほとんどスリックタイヤ同然。さらに使用できるタイヤ本数が決められているので、今走っているマシンのタイヤは相当磨耗しているはず。そして、ついに雨が降り始めた! スタート前のライダーとの打ち合わせの中で「雨が降った場合、タイヤ交換の判断はライダーに任せる」と決めていたため、ピットはレーシングレインタイヤを準備し、いつ本橋が戻ってきてもいい状態でいた。が、本橋はなかなかピットに戻ってこない。それどころか、どんどんと順位を上げていっているのだ?! 雨で周囲のライダーのラップタイムが落ちる中、本橋はペースをギリギリまでしか落とさす、さらにタイヤ交換の時間を稼ぐために、ピットタイミングを最後まで引っ張ったのだ。判断としては正解だが、ピットでは気が気ではない。一度転倒していることもあるし、やはり同じ作戦に出ていたほかのチームが転倒したりと、本橋がピット前に戻ってくるまで心臓に悪い状態が続いた。そして雨がさらに激しくなった最後の最後に本橋がやっとピットイン! レインタイヤへの交換もだが、想像以上に磨耗したブレーキパットの交換にも出る。しかしこのパット交換に手間取り10分近いタイムロス。ここでルーティーンであれば藤澤の出番となるが、勝負のときと判断し雨も得意な本橋が再びR1 に跨った。ここからは、また本橋の凄さに全員が驚くことになったのだ。

 突然のにわか雨の襲来で転倒や大幅なペースダウン、慌ててレインタイヤを用意するチームがいるなどコース上も、ピットも大混乱の状態。4回目のルーティーンが10分近くなり、連続走行となった本橋。ドライでの速さもだが、ウェットでの速さにも定評があるのはチームの誰もが知っていた。ピットストップで落としたポジションも、次のルーティーンまでには挽回するだろうと考えていたが、その時が来るのがピットが考えているよりあまりにも早かったのだ。
「ゼッケン88番! なんと、ただ1台2分12秒台で走っています!異常な速さです!」場内実況にピット内がどよめいた。そりゃそうだ、トップでさえ2分16秒から20秒台、下のほうになればもっと遅いラップタイムで走っているのだ。本橋は1周で3台、5台と次々とまとめて抜き去り、あっという間にリーダーボードにゼッケンが表示されるポジションまで上がってきたのだ。ちなみに2分12秒台というのは同じもてぎで、同じく雨の中で開催された世界GP・500ccクラスの決勝ラップタイム(もちろんワークスマシンの)とほとんど変わらない。藤澤の友人で、応援に来ていた当時現役GPライダーであった上田昇が「どこかGPチーム紹介しようか?」と苦笑いするほど。そのタイムを出す本橋も凄いが、R1の性能の凄さにも驚く。ピット内はお祭り騒ぎであったが、恵みの雨も徐々に雨が上がりはじめ、ライン上の路面が乾き出すと本橋は濡れた場所を探しながら走りはじめた。次のルーティーンでは再びタイヤ交換となる。それまでに作業時間を稼ごうと本橋はスロッルを開け続けていた。その時、再び本橋が転倒したのだ! しかも高速コーナーで、200km/h以上でのアクシデント。「ブレーキを掛けたとたん、気が付いたら転倒していた」と、30分近く時間が過ぎレッカーに乗ってピットに戻ってきた本橋が話す。グラベルでドロドロになり戻ってきたマシンは、ほぼ全損と言っておかしくない状態。誰もが「リタイア」という言葉を考えたが、誰かが何かを言うのを待っているように、重い空気が流れた。そのとき、最初に口を開いたのは全日本や鈴鹿8耐を走ってきた国際ライダーであり、今回はチーフメカニックとして参加する安達喜憲だった。
「直すぞ」待っていたかのように全員が一斉に動きだした。

 スペアマシンからパーツを外し、使えなくなったパーツをマシンから剥ぎ取る。1回目の転倒で割れたカウルをガムテープで補修し、再びマシンへと装着した。50分近い修復時間を要し、走れる状態にマシンが戻ったのはレースが残り1時間を切ろうとしたころ。ガムテープを包帯のように巻かれたR1に、藤澤が跨りピットから走り出した。誰からともなく、ピットから拍手が沸き起こった。鬼のような形相でマシンと格闘していた安達からも安堵の表情、汗と泥まみれになったスタッフにも笑顔が戻った。しかし、走り出したとはいえR1の状態は満身創痍。どこがいつ壊れて、いつ動かなくなってもおかしくない状態。そのなかで藤澤は丁寧に、慎重に、R1をいたわりながらラップを重ねた。そしてついにチェッカーフラッグが振られ、ピットウォールにライダー、スタッフ全員が並びチェッカーを受ける藤澤を歓声で出迎えた。チェッカーのとき、R1の4気筒エンジンは3気筒しか動いておらず、ウイニングランの途中でもヒヤヒヤしたと藤澤は話した。周回数133周、決勝順位63台中45位。後日、マシンをチェックするとキャブレター本体に亀裂が入り、フレームは歪んでいた。人馬一体、いや人車一体となり手に入れた成績だ。
 また修復されたマシンで、同年11月に開催されたエリア選手権SBクラス(Xフォーミュラ)に本橋が出場し、ぶっつけ本番ながら3位となった。

レース後はピットで大宴会! 騒ぎすぎで「とっとと片付けて帰ってくださ~い」と、もてぎから注意されました(^^;

はい!集合写真!って、多すぎて分かりにくいので、ここだけ写真が大きくなりますので、クリックしてみてね!
8番グリッドでの記念写真とまだ“原型”があったころのR1。給油担当の品田よるデザインだ
耐久のお約束、ル・マン式でもて耐スタート! んが、赤旗中断。別のところで本橋も転倒し、10数分後にはピットはもう大騒ぎさ。レースが再開される30分間で修復!
藤澤が戻るのを待ち構える下川と三保田。再スタート後は順調そのもの。夜中まで練習したピット作業も完璧であったのだ。

ぶっちぎり本橋、ノリの藤澤の2人に対して、マージンを持った走りを見せる下川。バランスの取れたトリオだ
耐久レースではよく見かけるのが水プール。熱くなった身体をクールダウンさせるのには最適。後ろのテントは、室温を下げたライダー休憩用のクールルームになっている
交代の準備をする藤澤
熱いのはライダーだけではなく、サイン担当も同じ。日除けはあるけど、日焼けはするしにわか雨でビショ濡れ
ウェットのなか、圧倒的な速さで追撃していた本橋が再び転倒。修復に50分近く要し、交換したパーツは数知れず。シートレールもグニャっと曲がり、鉄パイプで力づくで修正した。藤澤はいつでもコース出れる準備で待ち続け、本橋は着替えてマシンの修復作業を手伝う
ウイニングランを終え、藤澤を全員で出迎える。ガムテープを巻かれたR1の姿が痛々しい。このときエンジンは2気筒になっていた

もて耐プロジェクト
1999年 2000年 2001年