2001年 バリバリ伝説&Risys&M-FACTORY

プレ耐のときと、もて耐のときで、カラーリング変更しました。理由は単純です。もちろん“目立つため!”です

↑プレ耐

↑もて耐
上の写真のシャツのほか、Tシャツも作りました(^^; この人だかりはすごいでしょ? みんな愛美チャンしかみてませんが(^^;
↑サービスです。クリックすると大きい画像出ます







写真展で〜す
しかし、今回は集合写真ばっか撮ってたなあ(^^; しかも黒装束集団だし(^^;


元ヤマハワークスの茨木さん加入でSUGOに登場!TBCの放送にも映ったかな?
お約束の集合写真です。車両保管中のR1もご苦労様でした。
 この年から,もて耐のレギュレーションが見直され「ライダーは3名で、うち国際ライセンス所持者は1名まで。以前に国際ライセンスを取得経験者も国際ライセンス所持者とみなす」と改められた。レースのレベルが著しく上がったため、改められた規則だが実戦から10年近く離れ、自動的に国内ライセンスと降格となった本橋と亀作の2人のエースライダーにとっては痛い規則改正となった。このためライダーの編成を大きく組み替え、藤澤はレーシングマネージャー(雑用係ともいう)となり、本橋はアドバイザーとしエースライダーには亀作、そして新たに国内ライセンスライダーの島田誠二と原栄司の2人が加わった。

 そして、この年の最大のニュースとなったのが新たなサポーターがチームに加わったこと。ライダーのバイブルともいえる人気バイクコミック「バリバリ伝説」がサポートすることになったのだ! 縁起を担いでずっと8関係(末広がりね)のゼッケンにこだわってきたが、今回はもちろんゼッケン56となり、ヘルメットはライダー3人ともグンヘルでの参戦。しかも、週刊少年マガジンでレースの模様が掲載されるとあってスタッフは大ハリキリ。チームスタッフのほとんどが、リアルタイムで"バリ伝"を読んでいた世代でもあり、そのイメージを崩さないようにしなければと、気合を入れたのであった。

 しかし不安要素がないわけではなかった。新たに加わった島田と原はレース経験は長いが、参戦クラスは軽量級が中心でビッグバイクのレースは初体験。さらに予選は国内ライセンスライダーのみで、元国際ライセンスライダーである亀作は予選に参加できない。つまり新加入の2人にいきなり大きなプレッシャーが圧し掛かってしまうのだ。さらにレースのハイスピード化も著しく、GSX-R1000やCBR929RRの登場でマシンの戦闘力においてもYZF-R1ではハンデを負う状況になってきた。

 最初に悲鳴を上げたのがマシンであった。プレ3耐はマシントラブルでリタイアとなり、さらにエンジンも本戦に向けた練習走行中にブローしてしまったのだ。転倒やマシントラブルは過去にも遭遇したがなんとか完走は果たしており、致命的なトラブルでレースをリタイアしたのは今回のプレ耐が初めて。エンジンブローにしても今回がはじめての経験だ。逆に3年間、よく働いてくれたエンジンだっただけに寿命だったかもしれないが、愛着があっただけに悲しい出来事であった。もて耐は8月の最終日曜日に開催されるため、お盆前にはパーツの準備をしなければない。すでにこの時点で注文しても間に合わない時期だけに、知り合いのツテを使い必要なパーツを探したり、借りたりなどなんとか本戦までにニューマシンを用意することができた。しかし、慣れ親しんだマシンとは少々違うだけに、不安がないといえば嘘になる。とにかく、まずはもて耐予選を突破するのが最初の目的だ。

 もて耐への出走にはシード権があり、プレ耐で上位の結果を残せばその権利を獲ることが出来る。権利を行使するかどうかはチームに任せられるが、我々はこれまで権利を獲ても使ったことは一度もなかった。自力で予選を通過しなければ意味はないのだ。今回はプレ耐でリタイアで終わったためシード権は獲てはいないが、なんとか自力で予選通過することができた。といっても最終セッションまでタイムが出ず、最後の最後に島田がタイムをマークし32番グリッドを獲るというヒヤヒヤな展開であった。

 決勝レース日。チームのキャンギャルに、この年のミス・マガジンである中川愛美チャンがやって来た! 普段は男だらけのチームにとってはまさに華。ってか、ピットには蜜に群がるハチのように人が集まり、スタート前のピットウォークでは黒山の人だかりがピット前にできた。さすがはバリ伝、さすがはミス・マガジン、さすがはヒモパンの中川愛美チャン(担当、写真集買いました)。が、「バリバリ伝説ってTBSのガ○ンコ!ですか?」と観客から聞かれること、言われること。う〜ん、時代なんでしょうか?(^^; 世代の違いなんでしょうか?(^^; 言葉は変だが「こっちが本家です」と説明しときました。

 いよいよ決勝スタート。グリッド位置が中間ということもあり、混乱に巻き込まれないように慎重に……と思ったら、ジャンプスタート(フライング)で、ストップ&ゴーのペナルティをくらっちゃいました。それを除けば、ジワジワと順位を上げていくいわゆる"耐久レースの走り"で快調なすべり出しであった。レースは2時間を過ぎ、ルーティーンのライダー交代、給油も順調であったが、突然「マシンが止まってる?!」とモニターを見ていたスタッフが叫んだ。しばらくすると、自力でピットにマシンが戻ってきた。「ミッションがダメ!」レーサーとしてR1を使った場合の泣き所ともいえる、致命的なミッショントラブル。さらに直そうと思っても、R1のミッションはケースを割らないとどうにもならない。
 予選32位、決勝リタイア。もて耐チャレンジ3年目にして、一番短い夏の最後の日であった……。

 が、感傷的な終わり方をすると思ったら大間違いなこのチーム。10月のスポーツランドSUGOに、再びゼッケン56番で現れたのだ。しっかりとマシンは直され、オープン6時間耐久に参戦だ! しかも、大会のチラシやパンフレットには「バリ伝VSガ○ンコ!」とまで出てしまった(^^; このときすでにガ○ンコ!レーシングチームの放送は終了していたが、卒業した生徒たちで鈴鹿8耐への切符を取れなかった6人が、放送で練習やレース使っていたYZF-R6で参戦してきたのだ(オーヴァーレーシングが仕上げたマシンだから速いんだわコレが)。本家バリ伝VS分家ガチバリ伝の戦い! そのとき、衝撃の展開が?! と、ガ○ンコ!風に書いてみましたが、現場では誰とでもスグ仲良くなっちゃうのがうちのチームのいいところ。「いいレースしようね〜」と顔では笑っているが、アタマではもて耐のウップンを思い切り晴らしてやろうと、勝つ気マンマンでした、ハイ。

 SUGOの耐久レースは、もて耐と同じライダーは3人までOK。ライセンス区分の縛りもゆるいので本橋、亀作のダブルエースに加え、なんとゲストライダーとして元ヤマハワークスライダーの茨木繁さんをお招きしちゃいました。軽量級のイメージの強い茨木さんだが、鈴鹿8耐の経験もあり、ビッグバイクの経験もそれなりにある。といっても、引退してしばらく経つので、レース感という部分で少々心配であったが、そこはさすが元レーシングライダー。きっちりと決勝に合わせて人間もセットアップしてきます。

 決勝レースでは地元チームとの戦い。同じR1 を駆る元GPライダーの須貝義行率いるチームと、RC SUGOキットを組み込んだSB仕様のYZF750SPが相手。ただ、直したとはいえ、ミッションはいたわりながら走らないと高低差のあるSUGOでは負担が大きい。ブレーキにもシビアなコースだけにマシンに無理はさせられない。そのころ、2台エントリーしたガ○ンコ!チームの1台がマシントラブルに遭遇し、なんと決勝レースの真っ最中にエンジンを積み替えるという大手術を敢行?! 通常のレースであればエンジンの積み替えなどは出来るわけないが、ローカルルール炸裂なのも草レースの魅力なのだ。レース終盤、トップを独走していた須貝チームがブレーキパットを使い切ってしまい、残り30分を切って緊急ピットイン。同一周回で2位争いをしていた我々とYZF750SPの2台がトップ争いへと変わった。しかし、先行するYZF750SPとは1分近い差があり、このままの順位でチェッカーフラッグを受け、もて耐での悔しさを2位という形でリベンジすることができた。久々のレース、しかも2位という結果に茨木さんも終始笑顔。やっぱり完走すること、表彰台に上がれることって、レースをやっていて一番気持ちいいことだよね!

チームとして一年半ぶりのお立ち台です! 2位ゲッツ!
もて耐プロジェクト
1999年 2000年 2001年